傷赤く 愛深く





なぜお前は戦うのか?

飛び交う銃弾の中、弾ける刃の中、己の体の無事も省みず戦うのは、なぜか?


「愛するものを、守るためです」


言外に含まれた意味になど気付きもせず、提督は心得た風にゆっくりと頷く。少し乱れた金髪の下、疲れの見える目頭に指を当て、細く息を吐きながら私の言葉を反芻している様子。彼の薄い手の甲が邪魔して、その整った顔の全てを見ることはできない。
だが細い指の隙間から覗く切れ長の瞳、青い瞳に映された確固たる意志の強さと才気、それらを一瞬ばかりでも見れば彼の整いすぎるほどに整った姿形、なによりも目を引くのはその美しい顔であるが、それのみに限らず軍人の割に華奢な背中や、締まった足の間接だとか、人の目に映るところの全てが少しの歪さやぞんざいさもなく、整然と、完璧に造られているのを想像しうるにいたる。
上品な、それでいて豪華な衣服に身を包んだ彼の端麗美麗な姿に感銘を受けない人間はいないであろう。誰もがまずはその美々しい姿かたちを彼の第一のアイデンティティーとして認識することになるが、見目の麗しさというのは彼の本当の姿であると同時にそうでない。それは上っ面だけのことで、逆に言えばその見目麗しさ故にちょっとした粗相や人並みの癖だとかをより一層引き立ててしまうことになりかねないのもまた事実である。例えば、何か考え込むときに下唇を親指と人差し指で軽く、そして何度もつまむ癖は、彼に対して一瞬なりとも憧れを抱いたご婦人方にしたら彼女らの年端の行かない若い息子のあどけない顔を否が応でも思い起こさせることになる。それは彼女らの憧れを容赦なく別次元に陥らせるのだ。

この金髪の麗人を、強く、真面目な軍人であり、更に長時間の観賞に値するだけの美しさをもった人間だと称賛するのは、多くの男女であればかなり有り得ることではあるが、全くの間違いとは言わないまでも、事実そうであると確信を持って断言するわけにはいかない。
実のところ、彼は見た目の実直な感じからは想像つかないほどの激情家であるし、加えて不誠実である。

不誠実と申したのは、残念なことにかなり確定的な根拠のある話で、彼は亭主のいる女を愛しているのである。それもまた彼の類いまれなる美貌も全くの無関係ではない話で、不実なスキャンダルはその両人が特に並外れて美しいばかりに余計に注目を集め、嫉妬を買うことになった。
だが彼にはそのスキャンダルを何でもないことのように振る舞うことができるほどの要領の良さとか心の余裕だとかはなかった。むしろ執務中でもその御婦人のことで頭が一杯といった様子で、もともとの気性の激しさも手伝って、彼女と会えない辛さを今は粉々に砕けた何の罪もないグラスにぶつけた次第。
そして落ち着いたかと思ったら冒頭の例の質問というわけだ。彼の下で働く身としては、戦う理由に迷いなど感じて欲しくないものだ。それは誰しも共感していただけるはず。



「そうだな……」


提督は少し顔をあげた。私が彼をどう見ているかなど知りもせず、忠実な部下の言葉を一語一句疑ってはいないのだろう、気を許したくつろいだ感じに背凭れに体を預ける。


「愛するものを、守るため……か」


提督は「そうだな」ともう一度言った。一体何を考えているのやら、いや、ハミルトン夫人のことであろうとは予想がつくのであるが、心ここにあらずといった様子で空を見つめるばかりである。私もそんな提督の姿を、彼がこちらに全く関心なさげなのをいいことに食い入るように見つめていたものだから、唐突に彼が私に視線を向けた時には大層驚いてしまった。


「私の愛する者は、誰だと思う?」

「は?」

「私が、守るべき相手は、誰だと思う?」


私は「ハミルトン夫人」と、とても小さな声で答えた。聞いた方が申し訳なくなってしまうであろう程の気の弱い声が、この私の声であるとは自分でも信じがたいほどであった。
提督は声に出さずに肩を揺らす仕草だけで笑った。それからすぐに真顔になった。


「……最低だと思うか」


不貞を働く自身の行動に関して言っているのだろう。この件に関して私は今までずっと沈黙を保ってきていたので、いざ彼の口から質問されてもしかるべき答えを何も用意していなかった。


「ハーディ」

「……いえ、思いません」

「なぜ」

「人が誰を愛そうと、それは自由でしょう」


それが提督に向けてというより自分に向けて言った言葉であると気づくのに、数秒間を要した。提督が泣きそうな顔で「ありがとう」なんて礼を言った時には、あまりのばかばかしさに場違いな笑いを浮かべそうになってしまった。

何かに導かれるみたいな動作で立ち上がり、ふらつく足取りで、悪夢を見た人のような心もとない足取りで、提督は窓に近づく。夜闇に黒く塗りつぶされた窓には病的に青白い顔が映る。だがそれも彼の元々の美しさを引き立てるための演出に過ぎない。指先で軽く窓を撫で、嘆息とともに額を窓にくっつけたのは単に気まぐれを装いたかったためではないだろう。


「提督」


彼の隣に立って、そっと背中を撫でた私の手を払いのけようとはしない。
至誠溢れる立ち振る舞い、まして孤高すら感じさせる沈着だが正しき意思を持った眼差し、言うまでもなく美しい体の成り立ちなど、彼の第一印象が彼の全てだと信じ切っている人間にはおよそ想像しがたいことだろうが、案外、構われたいのである。ただし、そのような彼の意外な気質が発揮されるのは、甘やかしてくれる人間と対峙しているときのみである。それは例えば私とか、だがそれ以外の人間を私は知らない。怜悧な眼差しの奥に隠された彼の弱い部分を、私だけは知っている。



瞬間、提督は電流でも走ったみたいな瞬きをした。直後にどこか痛むみたいに固く瞳を閉じた提督を見る限り、前々から見えにくくなっている右目が痛んだのだろうと私は推測した。
薄ら瞳を開けて、やや私にもたれかかり、いきなり私の手を強く握った提督は少し震えているように見えた。


「ハーディ。私は……残されたこの半身だけで、彼女を守れるのだろうか。再び……会えるのだろうか。彼女を一人にしはしないだろうか。彼女を泣かせはしまいだろうか」

「ホレイショ」

「なあ、次に私が言うことは、冗談だ。だから、笑ってくれ。いいな?」


提督は妙な微笑を浮かべながら言った。次にどんな表情をするか決めかねて、泣くとも笑うともつかなくなっている微笑とでも言えばわかっていただけるだろうか。私が頷いたのを確認すると、提督は深く顔をうつむけた。


「死ぬのが、怖い……」


心臓を鷲掴みされたみたいに、私は一瞬呼吸ができなくなった。私の手を握る提督の手の熱が、私の体を駆け巡る。


「怖いんだよ、エマと会えなくなるのも、彼女がどんなに悲しむかとか、おかしくなってしまうんじゃないかとか……彼女、明るく見えるけど本当はすごく傷つきやすいんだ」

「わかります」

「ホレイシヤは? 私は、我が子をこの腕に抱けるのだろうか? 大きくなった時、父親がいないことに劣等感を感じないだろうか? ああ、でも例え生きていたにしても、右腕のないこんな姿を見たら、きっとホレイシヤは怖がってしまう」

「ホレイショ!」


いつのまにか提督の頬には幾筋も涙が流れていた。とはいっても激しい泣き方ではなく、単に涙がすごい勢いで流れているだけで、彼の表情は自分が泣いていることにも気が付いていないといった風である。それでも提督のそんな姿はやはり見るに堪えない。彼がハミルトン夫人を悲しませたくないという思いと同じである。全くの話。


「提督、私は貴方を守るために戦うのです。……わかりますか、この意味」


提督の唇は流れる涙の量に比例して段々に震えてきた。そこから嗚咽がこぼれる前に、ようやっと絞り出したと言った感じの極小さな声が聞こえた。


「キスしてくれ……ハーディ」


ゆっくり顔を上げた提督は半ば睨むような視線の向け方で私を見据えたが、そこに悪意がないのは明らかだった。私は彼の唇の震えを諌めるように、彼の頬に片手を置きながらそっと唇を合わせた。もう一度、強く唇を押しつけて、長い間そうしていた。はじめて触れた唇は、熱を持った掌に反して少し冷たかった。口づけの後に見せた彼の穏やかな微笑が、私は忘れられない。